家で過ごす連休二日目

Diary

2025年5月4日 12:34

私の職場は暦通りなので、ゴールデンウィークといえば昨日からの4日間だ。短い休みを大事に過ごさなくては。

金曜。残業と『PACHINKO』読了

金曜日は2時間ほど残業。ついにシステムが開始した。今までシステムを使わずに管理していた案件を全てシステムに移していたら遅くなった。エラーが出たのでシステム担当部署にも連絡したり。部長も課長も私より先に帰ったのは悲しかった。Iさんは残っていた。Iさんが帰ったら心折れて帰っていたことだろう。さあ、これからは早く帰るようにしなければいけないよ、と思う。Iさんももうすぐ転職のため、いなくなる。

帰宅して、夕飯(ブロッコリーとイカの魚醤炒め、ご飯、納豆、ゆで卵、サラダ、菜の花の味噌汁)を食べ、ミン・ジン・リー作/池田真紀子訳『PACHINKO』を読み終え、結局1時半頃に就寝した。この本を読んで、「韓国」を今までと同じように思えなくなった。「韓国行きたいねー」と軽く友人と話していたけど、うーん、韓国に対する気持ちが重くて、しばらくは無理かも。まったく同じ理由ではないけれど、沖縄にも昔から行く気がしないのだ…。いいところだとは十分に知っているし、好きなのだけれど、彼ら/彼女らに対する気持ちが、重く、心に影を作る。

タイトルバックの絵は韓国旅行時のスケッチとのことで、素敵な作品である。これを選んだのは、これくらい「抽象的」なイメージでないと、今は受け付けられない感じがするからだ。それくらいの強い印象を植え付けた読書体験だった。「苦生(コセン)」という言葉をこれでもかと見せつけられ、かつ、極めて「page turner ページターナー(※一度読み始めると、ページをめくるのを止められなくなるほど、面白く、引き込まれるような本)」であった。それはすごかった。結局母も私も2、3日で読んでしまった。

土曜。午後から祖父母の家へ

駅へ買い物と本を借りに

土曜日、起きたら午前9時頃。朝食(卵サンド)を摂り、祖父母に渡すためのお土産を駅まで歩いて買いに行く。少々迷ったが、結局、リンツのチョコレートのアソートパックを買った。叔母が、祖父母が好きだと言っていたもの。駅では図書館で本も借りた。ハン・ガン『回復する人間』。ハン・ガンブームが続いている。

ペスカタリアン生活1年経過

そういえばペスカタリアン(魚介類・卵・乳製品は食べるベジタリアン)生活はまる1年経った。肉を食べたのは、両手で数えられるくらいの回数ではないかと思っている。正直、全く問題なかった。肉を食べたいと思ったことはほとんどなかった。たまたまだろうが、この一年、一度も病気をしなかったし、体調不良で休まなかった。食事中の方には申し訳ないけれど、お通じの面で、まったく問題が起きなかったのは、食物繊維をたくさん摂れているからではないだろうか。夏に汗疹ができやすかったが、去年の夏はできなかった。私としては、もっと質素なものを食べないといけないという感覚なんだけど、なかなか。徐々に徐々に食生活を変えて、最終的には、尼さんのような食生活をしたいと思っている。

私の祖父母のこと

駅から帰って、少しだけ、メルヴィル作/八木敏雄訳『白鯨』を読み、昼食を食べ、母と母方の祖父母の家へ向かった。『白鯨』にはページターナーという概念の反対語を授けたい。上巻だけでも一生読み終わる気配なく、全上下巻かと思っていたら中巻もある。絶望。
祖父にも祖母にもしばらく会っていなかった。去年の夏以来か。その時祖父は入院していた。病室のベッドで横たわる祖父には弱々しさがあり、悲しかったし心配だった。今は退院して元気に過ごしているとは叔母からも母からも聞いていた。今はヘルパーさんが来て、祖父をお風呂に入れてくれたり、リハビリ士の方がリハビリに来ていると聞いていた。
祖父母の家は私の家から遠く、電車とバスを乗り継いで片道2時間、往復4時間かかるところにある。私が「実家」から離れたところに住んでいるのもあるが、「実家」からだとしても電車・バスを使うと結構時間がかかる。ただ、クルマだと近くて、15分くらいじゃないかな。小さい時は父の運転するクルマに乗せられてよく祖父母のうちに「預けられた」ものだ。白いプリン型の給水塔が向かう道沿いにあり、車窓からチラリと見るたびに祖父母のうちに近づいていることを知った。祖父母のうちには未婚の叔母がいて、よく遊んでくれたのでとても楽しかった。母よりも叔母といる方が楽しさは上だったと思う。まあ、特別な時間だったのだろう。いつも「ピングー」のクレイアニメを見せてくれるのも叔母ならではだった。寝る時、テレビのある部屋で布団に寝転がりながら鑑賞するのは特別の感覚だった。「実家」は寝入りながらテレビを観ることはしなかったので、少し悪いことをしている感覚があった。祖父母は優しかった。祖父に注意されたのは枕を踏んだ時くらいではないか。その時以後、枕は絶対に踏んでいない。

祖父母の来歴

母方の祖父母は高度経済成長期に近隣の県から実家のある県へ、仕事のために移り住んできた人たちだ。その地域の人たちがたくさん移り住んできた「団地」の一角に住んでいる。かつては大勢の各家族が住んでいただろうと思うけれど、今は後期高齢者ばかりが住んでいる。自転車置き場もガラガラだ。祖父母の家は元々は農家だったのではないかと思う。祖父母の親類の人たちは、まだ皆元々の故郷の方に住んでいる。
だから、祖父母の代まで辿るだけで、私は生粋の●●県民ではないことが分かる。父方の祖父だけは元々●●県民であり海辺の村の出である。もっと昔はわからないけれど、曽祖父は船長だったとのこと。シャム(当時のタイ)との貿易船だったと叔父から聞いた。父方の祖父は、若く亡くなった。40歳の時だ。父は中学生だった。祖母はその後「女手一つで」父たち兄弟を育てた。約1年前に92歳で亡くなったその父方の祖母は遠く広島県の島の人だ。ただ生まれたのはこちらだとのことで、もう島には近しい親戚はいないと思う。兄弟姉妹も日本各地の色々なところに住んでいる。私も広島のその島には行ったことがないし、祖母も私の知る限り行かなかった。と言うわけで色々ごった煮の家系なので、あまり郷土愛がないのもそういう因果関係があるのかなと思っている。私はまあ、どちらかというと山の方というより海の方が好きだけど、先祖のことをたまに父や叔父から聞いたから身近に感じているからだし、夏にはよく祖父の生家に行き、いとこ達と皆で海で遊んだ楽しい記憶があるからだろうと思う。

体が丈夫な母方の祖父母

家に行くと、祖父母は元気だった。祖父もソファに姿勢良く座っていた。祖母は以前「私も杖をつくようになったよ」と弱々しく言っていたけれど、ゆっくりではあるが家の中を元気に歩き回っていた。思えば二人ともがっしりした大きな体型をしており、丈夫そうだ。88歳と90歳になる。まだ「とんかつ」も食べるらしい。私より丈夫かもしれないわ。よく遊びに来ていた子供の頃は他の祖父母世代と比べることがなくて分からなかったけれど、彼らは体格的にも体力的にも強い家系の人のように感じた。その娘である私の母も丈夫で、毎週「実家」へ行ったり、海の方の家に行って畑仕事をしている。
その娘である私もひどめの花粉アレルギーと精神疾患は持っていることを除いて、体は人より丈夫で、風邪もひきにくい。食欲もいつもあるし、頭痛、腰痛、肩こりなど私の世代の特にPC仕事をしている人たちが皆持っている不調もほぼない。ちなみに父方の祖母もとても元気な人だった。自転車でどこまでも行けたし、元気な頃はほぼ毎週末、電車と自転車を乗り継いで海の家の畑へ行き、農作業をしていた。主にじゃがいもを作っていた。ちなみに私はいまだにポテトコロッケが好きで、きっと祖母がじゃがいもを作っていたことが強く影響しているのだろう。

裁縫のこと

母方の祖母も、父方の祖母も、裁縫をする人だった。そういう世代なのだろう。父方の祖母は一時期はミシンを使って内職もしていたらしい。机と合体したような、ブラザーの鉄製のとんでもなく重そうな職業用ミシンを持っていた。母はよくおばあちゃんのミシンは特別だ、ロックミシンなのだと言っていた。そのミシンは最終的には壊れてしまっていたので、処分されたけれど。祖母は基本的になんでも作ることができた。スカート、ブラウス、コート、スーツもつくれた。私たち孫にもよく服を作ってくれていた。祖母が若い頃着ていた手作りの膝丈スカートなどは、今も私が時々着ていて、生地も仕立ても今の市販の物とは全然違うために、よく褒められるものである。
私もその影響で裁縫をするようになった。幼い頃から、ひまつぶしで祖母の布の端切れを使ってなにかしら作っていた。人形のつかう座布団とか、固定電話に掛けるようなパッチワークのちょっとしたものとかを。祖母は女が裁縫をするのは良いことだと思っていただろうから、よく教えてくれた。「縫い目が綺麗だね」とよく褒めてくれた。
一方で、母は裁縫はほぼしなかった。祖母の世代と違い、母の世代で裁縫をする人は少ないように思う。ミシンで服を作らなくても服は売っているし、ミシンを使った内職もあまりないような世代だ。また、母は管理栄養士として働きながら子育てをしていて、裁縫をする暇はなかった。きっと祖母からも教わらなかったのではないかと思う。母は今もミシンに苦手意識があり、私の方がミシンは得意だ。私は子育て中にユザワヤで新しいジャノメのミシンを買ったので、自分のミシンを持っているが、母は結局持っていない。そういえば私や弟が家庭科でミシンをする時期になったときに、うちで練習できるよう、実家は中古の白いミシンを買った。中古のミシン業者はわざわざ家に納品に来、やり方もそこで教えてくれた。なぜだかそのことはよく覚えている。母がなにかそう言った「機械」的なものを買うことが稀だったからかもしれない。今も中古のミシンは家にあるだろうが、誰も使っていない。母は今は裁縫でなく、編み物をするおばあさんになった。
ここまでなんで裁縫の話をしたかと言うと、祖母が布を今回たくさんくれたからだ。それから最近に亡くなった祖母のお姉さん(99歳)が手で作ったパッチワークのバッグとポーチももらってきた。いかにもおばあさんが作ったらしい紺色がベースのバッグはいつ使うかちょっと分からないけれど、ポーチはスマホ・PC周りのものをまとめるのにちょうど良いから、早速使おうと思っている。
祖母はたくさんの布地をスカートにしようと買ったけれど、結局作れなかったとのこと。前述のように、一族の中で裁縫をするのは私しかいないので、とりあえず作りやすそうな無地の布をいくつか譲り受けることになった。最近忙しく、土日は予定が入っていなければ寝てるかカフェで勉強しているかジムに行っているかで潰れてしまうので、裁縫をすることができないけれど、祖母からもらった布でスカートを作らなくてはいけない、と思う。スカート難しいのよな。祖母曰く、「お尻だけ合えば、あとはタックでどうにでもなる」とのことだか…。

と言うわけで祖母にお菓子(母の作ったういろうとおはぎ、それからリンツのチョコレート)と京都の土産を渡し(ペルシャ的な模様のスカーフ)、布地と少しの食べ物(海苔の佃煮、鮭フレーク)をもらった。そして帰る途中にパンを買い(シナモンロール、フォカッチャ、明太子フランス、ツナパン)帰ってきた。夕飯を食べ(ひよこ豆カレー、なすと卵とニンニクの炒め物)、同僚からどうしてかもらったハイボール缶を半分ほど飲み、ものすごく酔ってバッタリと寝てしまった。

日曜。コーヒーを入れ、家にこもる

今朝になり、ネパールの無農薬コーヒーをたっぷり入れ、ポットに詰め、一日に備えた。朝食(パンとクッキー、コーヒー、ゆで卵)を食べてから風呂に入った後、オモコロチャンネルを観ながらこのnoteを書いた。今日はもう家を出ないかもしれない。少し花粉症のような症状があり、元気があまりない。明日明後日と出かける予定があるので、それに備えます。

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