自分を再生すること

Diary

2025年5月17日 10:27

今朝から雨。体調、天候と相談し、映画やバラ園はやめて、昼に南インド料理を食べに行くにとどめることにした。昨日は、退勤後、19日ぶりのジムだった。最近色々都合が悪く行けなかったので久々に行け、とにかく嬉しかった。

目次

  1. 矛盾する性格の正体
  2. 今稼いでくれている「ポケモン」
  3. 文章を書くことで再生する

矛盾する性格の正体

先日から考えていたことが、自分の中で一旦まとまったので、書くことにした。
私の性格に「こだわりが強いのに、おおざっぱ」というのがある。この矛盾はなんだろうとずっと考えていた。
これは、思うに、自分という存在を社会に適合させてきた歴史の結果なのではと思った。たぶんオリジナルの私は「こだわりが強い」。
何を作るにも時間がかかる子どもだった。

小学生の頃、絵を習っていた時のことを思い出しても、誰よりも遅い時間まで残って作品を作っていた。父や母が仕事帰りに迎えに来ても、まだ終わっておらす、待っていてもらうこともしょっちゅうだった。あまりに遅くなると、先生が近所でシュークリームを買ってきてくれて差し入れてくれた。毎週毎週、納得行くまで描いていた。そんな子供だった。でも、そのままだと現代社会のスピードに適合できない。なので、成長するにつれ、「こだわり屋」の部分を脇によけ、「おおざっぱ」になったのではないか。

また、私が、バレーボールを学生時代に約7年間していたのに、バレーボールが大嫌いなのも、同じ理由ではないかと思う。体育会系のほうが、特に私の住んでいるような地方の社会は、基本的に生きていくには有利だ。「文化的」なことは、時に揶揄の対象になるような社会だ。学生時代の見えない序列、社会に出てからの体育会系への期待。(もちろん、これに限らない、違った社会や業種もあるに違いない。)

私の性格で矛盾が生じているこのいくつかの部分は、趣味を追求することや、本来の自分を伸ばすことを諦め、社会に適合しなくてはいけなかった奮闘の結果だ。

今稼いでくれている「ポケモン」

今は、一応なんとか稼げている。私のオリジナルであるこだわりを捨てて育ててきた、社会に適合した「ポケモン」の部分が、社会でなんとか働いてくれている。社会に与えて、代わりに社会から得る、そうした社会との外交の部分は「ポケモン」が担ってくれている。

これからは、せめて仕事以外では、「こだわり屋」で「たっぷり時間がかかる」、「内向的な」社会に適合できない私をのびのび育ててあげたい。本来の自分を「ポケモン」により囲ってあげて、この社会から守ってあげる。これは、大人になるからこそ、できることなのかもしれない。大人に庇護されて、社会に適合するように望まれながら生きる子ども時代にはできなかったことだ。

文章を書くことで再生する

本来の自分を育てること。私にとり、noteに書くこともその大事な一部なのだろう。一部というより、大部分を占めているかもしれない。

内なる自分を解放する手段として、文章を書くことは、とても効果的だ。文字に起こすことで、まだ言葉になる以前の内なる考えが外に出され、それをまた自分に取り込むことで、内なる自分を育てていける。

もちろん絵を描く事や、そのほか作品を作ることも自己表現であり、内なる自分を育てる手段になるだろう。創造することは、どんなことでもそうだろう。
それに、言葉というロゴスの世界のシロモノは、時に刃になる。それが他人や自分自身を傷つけることもある。言葉に溢れる世界で、論理に疲れることもあるだろう。そんなとき、絵や音楽は優しい。

それでも、言葉による作品が優れているのは、ほとんど何も道具が要らないことだ。noteなら、基本的にはスマホひとつで、いつでもどこでもできる。疲れていても、文章は書けるという人もいる。言葉での表現は誰にでも開かれている。

社会に適合するために捨ててきた自分をもう一度蘇らせ、大事に育てること。それは再生と言えるのかもしれない。私は今、DIY、語学学習、読書、音楽、美術などに興味がある。それに、「こだわりのある人」が好きだ。それは、私の「こだわり屋」の部分がまだ生きていることの証のように思う。これからゆっくり育てていこう。

〜巻末資料〜
「ポケモン」についてはこちらの記事に以前書いた。映画『ジョーカー』の感想文中に紹介したのは東大の安冨さんの言う、社会に適合した「ポケモン」についての記事。この記事で「ポケモン」が腹にすとんと落ち、私の中に新しい概念として根付いた感覚がある。

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