子供時代から高校時代のことを振り返る。「どんな時も、作ることはやめなかったよね」

Diary

2025年1月29日 21:48

トップ画、ロシアだそう。温度や匂いのなさそうな世界。なにもない美しさ。ぐっとくる。使うのは、2回目かもしれない。すてきな写真をありがとうございます。

※今日は長いです。

前回のnoteでも書いたけれども、できるだけ人と関わり合いになりたくない、できれば一人で生きていきたいと思いつつ、noteに気持ちを書いたりコメントしたり、子どもに必ず会いたいと思う、この気持ちの矛盾はどういうわけなんだろうとここ数日考えていた。

思えば去年祖母が亡くなり、自分の中の「愛」が少し変化したような気がする。どう変わったかというと、愛する、愛される対象を亡くしたことにより、なんだかどうでもいいような、諦めに近いような感覚になった感じがする。少しの人を、愛すればいい、というような。

ところで、その昔、祖母は小さかった私に般若心経の最後の部分を教えてくれた。

ぎゃーていぎゃーていはらぎゃーてい
はらそーぎゃーていぼーちーそわか
はんにゃしんぎょう 

羯帝羯帝波羅羯帝
波羅僧羯帝菩提僧莎訶
般若心経

というところ。

※1
ギャーテー、ギャーテー、ハーラーギャーテー、ハラソーギャーテー、ボージーソワカ
ゆきましょう、ゆきましょう、捉われなき世界へ、素晴らしいところへ、ひとり残らずゆきましょう、悟りよ幸あれ。
という意味ですが、呪文ですから「ギャーテー、ギャーテー・・・」と原語で呪えたほうがよろしゅうございます。

第38話 ギャーテーギャーテー – 法話図書館 佐藤俊明のちょっといい話www.jtvan.co.jp

※2
漢字は当て字で、サンスクリット語を音写したものです。元は、「ガテーガテー パーラガテー パーラサムガテー ボーディ スヴァーハ」です。

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子どもは難しく考えず、響きだけで覚えるので、今も諳んじられる。この前の一周忌の法事で、般若心経をお坊さんと一緒に唱える時に当然ながら最後にこの一節が出てきた。そのとき涙があふれて結局唱えられなかった。祖母のことを思い出したからだ。

祖母は共働きだった母にかわり私を育ててくれた。私にとっては母よりも母親のようなものだった。小学3年生の私が風邪を引いて早引きする時に、自転車の後に乗せて引いて帰ってくれたことを今も思い出す。坂の上の小学校だったから、坂を自転車を引いて上がって来てくれたのだろう。その頃祖母は66歳くらいだったのではと思う。元気な祖母だった。最期は痩せて小さくなってしまっていたけど、その当時、その時代の人にしては太っていてしっかりした体格をしていた。ちなみに、その時学校までに迎えに来た祖母に対し、3年生担任の女性の先生は、引っ越しにより転校する私について、「とても惜しいことです」と言ってくれたとのことで、帰り道の祖母はとても誇らしげだった。その後も、祖母はいつもその話をした。それは、私にとっても嬉しいことだった。

小学生の時、夏休みや冬休みには毎日自転車で大きな坂を降り、祖母は私たちの家に来てくれていた。裁縫を教えてくれたのもこんな頃だった。片道20分くらいの距離、往復で40分くらいではないかと思う。帰りには、大きな坂道を登って行った。私の地元は坂が多くて、祖母は坂の上に住んでいて、私のうちは坂の下にあったのだ。4年生になり、引っ越して私たちは祖母のうちの近くに住んだので、やっと祖母は自転車での坂の上り下りはしなくてよくなった。この祖母の坂道の上り下りの話は初めて人にしたような気がする。自分の結婚式でも披露しなかったな。

私は、祖母にとっては初めて生まれた女の孫であり、そして共働きであったためあまり母親から構ってもらえなかったので、代わりにとても可愛がっていてくれたように思う。当時共働きの家庭は少数派で、いつもなんとなく親のフォローが足りなかった私たちきょうだい。寂しい思いをしていたけれども、親は厳しかったというかヒステリックなタイプだったので言えなかった。機嫌が良くなるように祈りながら、いつもタイミングを見計らっていた。なにか失敗した時に報告するのが怖かった。余裕のない母から「いらんことして」と言われるのが辛かったからだ。
わがままはあまり言わずに育った。一度だけ保育園生の頃、キキララ(サンリオのキャラクター、当時流行っていたと思う)の絵のついたトレーナーがどうしても欲しいと頼んだけれど、親はキャラクターものの服を好まなかったので買ってもらえなかった記憶。なぜか鮮明な記憶だ。それ以来、私はわがままを言わなくなったように思う。両親との関係が悪かったとは思わない。むしろ愛情のこもった家庭だったと思うから、感謝している。父のことは母より好きだし、母のことも今は一緒に暮らすくらいなので、特段なんとも思っていない。けれどもそんなわけで、私には母よりも祖母が特別な存在だったのだ。

そんな祖母が亡くなって、その数年前には精神の病気でいろいろなものを失っていたため、同時に複数の喪失感を味わった数年間だった。でも、逆に言えば、祖母からの「孫は優秀であるはずだ」という思い込み?期待?愛?のようなものから解放されたのかもしれない。喪失の数年間。それはちょうどコロナ禍に重なっていた。少しばかり重ねていたキャリアもなくなったし、自ら築いた家族もなくした。祖母も亡くしたし、迷惑をかけたり、逆に事情を全く知らない友人からは自ら離れた。(今もつながっている友人はごくわずか)。それで、今まで大切にしてきたものがまるでなくなってしまい、ある意味気楽にもなったのだと思う。なんだかんだと中学や高校から続いていた関係は、切るタイミングのない長い糸となって、私に絡みついていた。

中学2、3年生の時は、とにもかくにもバレーボール。部活の日々だった。顧問は私のことをとにかくかわいがった(もちろん、悪い意味で。)。バレーボール部には、いろいろ理由があって入った。親からスポーツをしたほうがいいと言われたのもあったし、その他にも少し理由があったが、複雑になるのでここでは省く。少なくとも私はスポーツ大好きな子どもでなかったが、スポーツの部活に入る子が圧倒的に多い田舎の環境で、あまり何も考えず入ったという感じである。今となってはどうしようもないが、今思えば、ここで別の部活に入っていたらその後は少なからず変わったかもしれない。

ぼーっとしながらも成績は良く、本当には傷ついていても顧問には飄々として見える私は、きっと顧問から見ても浮いていたのだろう。よく分からない存在だったのだろう。背は学年で一番高かったが、運動のできはごくごく普通だった。良く気が付き、小回りがきく同級生とはきっと何かが違っていたのだろうと思う。「いくら勉強ができたって、お前は駄目なんだよ!」と言われながら何本もスパイクの玉を受けたときのことは一生忘れない。そんな日々でも、当時は言葉の暴力やしごきは結構あたりまえのことだったし、キャプテンもリベロも、エースも、みんなが何かと酷いことを言われなながらしごかれていた。部活は嫌でも、みんな一緒の気持ちだったから、辞めようとか、不登校とか、そういうふうにはならなかった。たぶん、そんなに心や環境が自由じゃなかった。
また、そんな怖い顧問を敵として、みんなが一致団結したようなところもあったと思う。そんな中学時代だった。実際私は他の子どもたちと自分はなにか違う気がしながら過ごした。そういう漫然とした悩みを持つ子どもだった。孤独というのともきっと違うのだろう。当時の気持ちはなかなか言葉にできない。そうそう、部活にはなにかと車が必要で、他の子の親は結構車を出してくれていたけど、うちの親は出さなかった。車が小さかったのもあったかもしれないけど、なにより私が親に気を使ってそういうことをお願いできなかった。親(母親)も、気を回して車を出してくれるような親ではなかった。ということもあり、顧問から私は、あまりよく思われてなかった気もする。
実は、当時の良い思い出も色々ある。また話したいけれど、そういうわけで私の中学2.3年生の時代はざっくり言えば闇の時代である。なので当時の部活の友達に会っても、なんとなく気が引けてしまうところが未だにある。「勉強はできるけど、気が利かなくて、駄目な私」という印象を、しっかり抱かせてくれた、そんな時代だったし、体験だった。

高校ではまたバレー部に入ることになるのだが、とても良い部活経験となった。顧問の先生は私を本当に可愛がってくれた。(今度は文字通りの意味で!)

進学校である県立高校に入り、環境としては勉強ができるのが普通だったので、私は中学のように「浮いている感覚」もあまりなくなり、部活も自主性を重視していたため、顧問の「しごき」も当然なくなった。ちなみに同じ中学の出身の子はいなかった。私は羽根を伸ばした鳥のように自由になった。「不器用だけれどできることは全力できちんとやる」私の個性を顧問(おじいちゃん先生)は認めてくれた。バレー部の仲間のことはまた話そうと思うが、ストイックにバレーに取り組む私を認めてくれる向きもあり、またストイックすぎて周りが見えなくなるとことを諌めてくれるメンバーもいた。よいバランスだった。「ミーティング」も多くあり、それはそれは疲れたけれど、そのころの他人との「深い」関係やストイックな物事への姿勢は、未だに私にいろんな意味で影響を与えているように思う。ただ友人関係はクラスが変わるたびに変わってしまう傾向があり、部活の仲間とはつるんでいたが、そしてクラスでもできるだけ盛り上げるよう、ムードメーカーの役割だったけれど、クラス替えがあると関係も自然と離れるような感じだった。私は「組織の人」なのかもしれない。組織のためになら明るくもなれるし、盛り上げ役になれるが、自分自身があまりない、もしくは表現できないのかもしれない。日本人に多いタイプかもしれないな…。

結局高校時代を通じて親友は2人ほどできたくらいで、深い友人はあまり多くはできなかったように思う。理由は分からないけれど、私が周りの空気に合わせすぎて個性を出しきれない、本音を言えないところ(空気を読みすぎる)が影響しているように思う。今となってはその2人のうち1人とは関係が続いており、もう1人とは大学まで同じだったのに、色々な理由やきっかけがあり、切れてしまった。その子は今どこで何しているかもか知らない。大学院を卒業して、夢をかなえたその子。大学を何とか卒業するも、就職で失敗し、失意のまま就職した私とは好対照だ。だからかもしれないが、会いたいような会いたくないような感じである。ときどき夢の中に出てきてくれる彼女、そしていつも夢の中で私は再会を喜んでいる。相手は私にどんな感情を持っているのか今となっては分からないけれど。

祖母の話から中学、高校を振り返ったけれども、結局私は組織の人間であり、組織に合わせて変化してきた人間なのだと思う。親の前では顔色を読み、明るく。祖母の前では優等生。中学時代は部活でできない子を、高校時代の部活やクラスではムードメーカーを演じてきた。その時々でキャラクターが違うために、長く続いた友人は数少ないのだと思う。そして今は精神疾患で失敗した後の人生を背負っている。こんなに多種多様な人生を自分が身に纏うことになろうとは思わなかった。もしかしたら、そのことに、もう疲れてしまっているのかもしれないな。それで、人間関係をやめたいというより「特定の組織に属して、組織に合った生活をすること」をやめたいと思っているのかもしれない。組織というのは会社とか学校だけじゃなくて、同窓とかもある。

自分が組織に所属していなくても持っている性格ってなんだろう。長く続いている友人がどこに良さを見出しているのか分からないけれど(単に「友人だから」好きなのかもしれない)少なくともずっと好きなことは、なにかを作ることなのかもしれない。いつかそんなことを友人から言われたことがある気がする。あなたは「どんな時も作ることはやめなかったよね」と。

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