雨上がり2

Diary

2021年5月23日 12:36


こんにちは。雨が続いたが、昨日から上がっている。
洗濯ができるので嬉しい。

存在意義?

私は最近ずっと無為に生きてるので、自分の存在意義みたいなものが
あまり見えてこないのだが、存在意義なんてそもそもないのかもしれない。
「何もないとこから何にもないとこへと何にもなかったかのように巡る命だから」
という森山直太朗の歌詞があるが、本当今の自分には何もない。
本当は何も無いのに、何かあるようにするために、私たちは結婚したり、子供を作ったり、趣味を見出したりするのかもしれない。
社会に復帰するということは、単に仕事に戻るというだけでなく、人間関係の中に戻されるということだと思う。すると、やるべきことが増えて、忙しくなり、対人関係のストレスが増えるが、無為に過ごすことは減るのだろう。

無為に過ごしてるが、健康状態はいいと思う。ストレスがないからだろう。
このままこうして過ごせたら良いなあとは思わないのだが(あまりに退屈なので。)でも、病気の再発は多分こうして過ごしてる分に無いから、安心は安心だ。
元々他人と自分を比べることをほとんどしない人間なので、あの子と違って自分は、と考えて落ち込んだりしないみたいだ。
自分が休職していることで、職場には迷惑をかけているけれど、他の人にはかけていないし、自分が休職していることで助かっている人もいるかもしれない。もしかしたらいないかもしれないけど、休職している人もいるんだから自分もゆったり仕事しよう、と考える人もいるかもしれないので、自分がなんの役にも立っていないとは考えないようにしよう。

ポストモダン

ところで、なにも確かなものはなく、理由や原因はなく、因果関係も説明できず、歴史の流れの中で物事が起こっているわけではないという考え方をポストモダンではとっている。
ポストモダン的に考えると、本当何も無くなってしまう。
確かなことは何一つ無いということだ。病気と健康の区別、狂気と正気の区別、男女の区別、、なにもかも。
そうすると「論理的な」文章というのも無くなってしまう気もするが、その辺はどうなのだろう。あるのはバラバラな文章だけで、「論理的な」文章というのはポストモダン的ではないと思う。でも、ポストモダンの人たちも文章は書くので、「論理性」は捨てきれてないということではないか。

因果関係はないと考えると、楽になれる部分もある。
病気になったのは偶然が重なったからで、特定された原因があるわけではないと考えると、
自分のせいで、という自分を責める気持ちも湧いてこない。
偶然が重なると、起こるということは、再発を元から防ぐことは難しいかもしれないから、
眠れなくなったら対応するなど、再発のスタートの時点でストップすることが必要なのかもしれない。

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