2025年6月29日 20:24
大学生の時、「やむやむさんの声は、白い」と言われたことがあった。そう言ったのは、音楽を嗜む、研究室にいる事務補佐員の方だった。白は黒と同様、彩度のない色であり、色の無い色である。彩度がないというのは、彩りがないことであり、温度がないということだ。色には温度がある。赤は暖色であり、青は寒色だ。白には色はないから、温度がない。
白は純粋な色であり、何にでも染まれるという意味を持つ色だ。おくるみの色は白であり、お乳の色も白だ。産まれたばかりの子供は白に包まれる。
また、死装束の色も白だ。人は白く生まれ、白く死んでゆく。
白を考える時、私は長く生きて、何にもなれなかったと感じる。私は子供で無力だと感じる。個性のない私。なにも色がない私。誰とでも組み合わせることができる。誰の色にも染まることが出来る。弱い私。
でもある時、白は意外に強い色だというのを聞いた。白はあまりにフレッシュな色であり、印象が強く、着る人を選ぶという意味でファッションの文脈で使われていた。そうなんだ。白は強い。ならば、私も強い。白は弱いけど、強い色。
そうだ。絵を習っていた時のことを思い出す。絵の具の白は強い。混ぜたら混ぜたと、はっきり分かる。紫に白を混ぜたり、緑に白を混ぜた時の感覚を思い出す。赤と青を混ぜただけの紫は濃すぎてきつい。しかし、少し白を混ぜると色味が優しくなり、使いやすくなる。それは、先生が教えてくれた。緑も同じだった。白にビリジアンを混ぜたその色は、誰かさんが発明した。そして「エメラルドグリーン」と呼ばれ、子供たちの間で流行った。
東京の大学生だった時、好きになった人は、私の印象を「緑」だと言った。緑は自然の象徴であり、地方育ちの私にそういう印象を重ねたのかもしれない。多分、私はあまり人工的なところがない。自然だ。その後たしかに、そういうイメージを自分に持つようになった。東京で生きるには私はナチュラルすぎたように思う。その元恋人も、私には弱さを感じると言って去っていった。だんだん遠くなったあなたへ。私は、自然だ。そして、弱い。だんだん色が加わってきた。
地元に帰って就職した。休職したり転職したりして今は三社目に勤めている。私は何色になったのだろう。なんにも変わっていないように思っていた。社風や家風にも染まらなかった。上手く染まれない私。流れ流されここまで来た。
母が今日、アガパンサスという花を持ってきた。アフリカ原産の生命力を感じる花。祖父の生家のある海の家の畑に咲いていたもの。色は、涼しげな薄い紫。
この間、街に出たら、テーブルコーディネートが展示してあった。少し赤みのある、薄紫色のリネンのテーブルクロスが素敵だと思った。今、そういう色のリネンを探している。見つけたら、テーブルクロスと、シャツにしたい。テーブルと私の双子コーデ。
この間、職場を去ったお世話になった人で、「冗談を抜きに、やむやむさんのおかげでなんとかやり切れた」と言ってくれた人は、紫の軸のペンをお別れにくれた。紫は高貴な色だ。そして青でもなく赤でもない、暖色にも寒色にも当てはまらない中間色だ。思えば緑もそうで、黄色は暖色、青は寒色。半分ずつ混ぜた緑は中間色だ。
イメージしてみる。私は暖色でも寒色でもない、中間色だ。そして白からスタートした私は、明度が高い、白が沢山混じっている色のはずだ。薄い紫、薄い緑。それが私の色だ。白はフレッシュすぎて印象的な色だ。染まりそうに見えて、なかなか染まらない。
大学生の時にアルバイトしていたレストランバー。店長が現地の言葉で私に名前をつけてくれた。「nasiim」。そよ風という意味。そよ風には色は無いはずだ。少なくとも明度が高い白に近い色のはず。
イメージしてみる。私は薄紫や薄緑の風だ。そよ風は、優しく吹く。きっとラベンダー畑にはそういう色の風が吹いているだろう。私は弱くて強い。優しく吹く風。私は留まらない。私は風だし、風にそよぐ植物だ。私は周りを寛がせる。周りが私を寛がせるのと同じように。私は中間色。温かくも冷たくもない。私は揺さぶられるし、揺さぶる。私は固まらないし留まらない。柔らかい。流れる。私は流れるし流される。だから弱いし、強いのだと。


コメント